学生の頃、週末を利用して友人達や建築家と沖縄の集落調査を行った。

糸満から恩納村まで歴史的に古い40近い集落(字)を見てまわった。
調査の内容としては、集落の御嶽等の拝所の位置と住居域の関係や、本家(ムートウヤー)と分家の配置を聞き取りや資料をもとに調べていった。調査をして分かった事は、文献でも述べられているが、沖縄の集落には一定の規則があるという事であった。
立地としては近くに農地、水源があり夏に南風を受け、冬に北風を防ぐ南斜面に多くの集落は位置していた。
拝所は集落の北側に多く、住居域から少し離れた高い場所には古島と呼ばれる元集落の祖霊神を奉った御嶽や井戸、グスク等があり腰当の森(クサティムイ)とも呼ばれる。

住居域の配置も北側の高い場所に本家があり、その下に分家が広がっていき南側に行くほど新しい分家になっていくという末広がりの配置だ。僕の育った久米島の集落にもこの構成がみられる。

この配置は、現在の私達世代では感じることがないが、集落住民は、集落の高い場所から腰当の森の祖霊神や住居域では本家から守られているという安心感を与えていたと思われる。
だから古い集落では本家より高い場所に分家の家を造ってはならないという暗黙のルールがあったようだ。
また水辺空間や大きな樹木が拝所になっている場所も多いので、自然に対する畏敬の念も強かったと思う。

時代の流れかもしれないが、調査を行った村によっては御嶽や水辺空間が雑草に覆われ管理されていない場所も見られた。
また宅地化が進み本家の上に新しい家が建ってきている集落もみられ、これまでの集落の構成が崩れてきている。

集落、都市も年々変化するものであるが、私達は無意識にこれらの物を受入れてはいないだろうか。
なくなっていった形態や管理されなくなった御嶽などの祭祀空間には、集落という集まって住む共同体を結びつけるものがあったはずだ。
現在の変化の激しい時代にこそ自分の生まれ育って来た場所を見直し、住環境や共同体を結びつけてきたものが何であったかを考える必要があると思う。